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吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。 戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。 == 歴史 == === 戦国時代初期 === 永正2年(1505年)に宝飯郡の長山一色城主・牧野古白が今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村(豊橋市今橋町。現在の同市馬見塚町とは位置が異なる。)の入道ヶ淵に臨む岡に築城したとされる。〔「今橋物語」所収の永正2年11月(旧暦)付の渡辺平内次宛今川氏親判物は馬見塚村(現在の豊橋市今橋町)地頭であった渡辺平内次に替地として渥美郡三相村(現在の豊橋市三ツ相町から馬見塚町辺り。)を宛てる旨を記し、これが馬見塚村の今橋築城を示すとされている(出典→『豊橋市史』368頁)〕〔しかし、築城者について「牛窪記」では、築城者を牧野家(奉行)、城主を牧野田三としているのに対して、後の成立である「牛窪密談記」では築城者および城主を牧野成時(古白)、「宮嶋伝記」には牧野古白(成時)としており、違いがある。(『豊橋市史』366-368頁)〕築城目的は、西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平長親による東三河進出に備えるため、もしくは、その松平氏の縁戚としての友好関係を保持しながら渥美郡全域で勢いをつけていた戸田宗光を警戒するためのもの、と考えられている。 翌永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。今橋城から近い東方の二連木城(豊橋市仁連木町)や半島の田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が次々と入れ替わった。 享禄2年(1529年)、西三河から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)には清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。 天文15年(1546年)、牛窪城主(長山一色城主)の牧野保成の要請を請けて今川氏が戸田宣成を攻めて吉田城を陥落させ〔この際、田原城・二連木城の両戸田氏等の戸田一族は宣成を救援した形跡が無く、このことから宣成が戸田一族の今川氏に対する犠牲となったとする。(『豊橋市史』390頁)〕、これを管理下に置いた。今川氏が直接支配に乗り出したことで東三河における最重要戦略拠点となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田城 (三河国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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